この文章は、日本珠算連盟『日本珠算』590号(2005/09/01発行)に掲載されたものです。
子供の頃住んでいた家の、道を挟んだはす向かいにそろばん塾があって、兄もそこに通っていた。一度、「私も習いたい」と言ったことがあるのだけど、母に、「アンタはピアノで手一杯なんだから、いいの」と却下された。確かに私はピアノを習っていて、ろくに練習もせず「ただ通うだけ」だったし、決して短くない習った年月の割には、お世辞にも「ピアノが弾ける」と言える状態にはならなかったので、この上習い事を増やしてもムダに払う月謝が増えるだけだと判断した母は、多分、正しい。
そんなわけで、『スワンパン』というそろばん漫画を描いていながら、私はそろばんができない。そろばんをやっている人が読むには物足りないもかもしれないけれど、多分この先も、「そろばんを始めた主人公が、メキメキ腕を上げて……」という展開にはならず、これまで私が描いてきた漫画と同様、「ソロバン・レンジャー」とか言いながら、主人公がひたすら妄想の世界に遊ぶ話になってしまうわけで、まさか、「ピアノの練習をサボっていたツケ」がこんな形で巡ってくるとは思わなかった。
私には、子供の頃から「できたらいいな」と憧れているのに、とても苦手なものが二つある。「音楽」と「数学」だ。
高校の時だったか、一度、数学のテストの答案用紙を返してもらう時に、先生から「お前が理解してるのは、判るんだけどなぁ。点数はやれないんだよなぁ」と、ため息まじりに言われたことがある。返してもらう答案用紙には、いつも○がほとんどなくて、△に添えられた「部分点」が並んでいた。立てた式は合っているのに、途中で簡単な足し算引き算を間違えるせいで、正解に至らない。ひどい時には、せっかく出した正解を、答案の欄に書き写す時に、隣り合った数字をひっくり返しすような形で写し間違えていたりもした。幸か不幸か、暗算が全く出来ないせいで、答案用紙の余白にはみっしりと筆算が並んでいたから、先生にはどこで間違えたのかが一目瞭然で、間違えた個所に、先生が呆れて付けたのだろう、赤ペンでトントンと叩いた跡があったりした。
先生にも、母にも、「お前はそそっかしい」と言われていたから、自分でもそう思っていた。でも、「あんな長い計算を、一か所も間違えずにできる方がおかしい」とも思っていたし、「答案を提出する前に、見直しをしろ」と言われれば、「そんなことを要求する、数学の先生の方が非常識だ」と思った。国語や英語や他の科目なら、制限時間をたっぷり残して終えられるので、答案の見直しもできる。でも数学は、いつも制限時間との戦いで、答案を見直す時間なんてない。制限時間を無視した問題数を出す先生のほうが間違っている。言い訳をしておくと、△ばかりでもクラスの平均点を下回ることはなかったので、自分には人並み程度の能力があると信じて疑わなかったし、他の子の答案用紙を見る機会もなかったので、みんな自分と似たようなもんだと思っていた。
それが間違いだと気付いたのは、学校を卒業して数学の授業からだいぶ遠ざかってからだった。「数学」は人並みだったとしても、「算数」の方は、「一桁二桁の足し算を、全て一々筆算している」なんてところから、かなり怪しかったのだ。
正確に言えば、苦手なのは「数学」でも「算数」でもなくて、「数字」そのものだ。例えば八桁の電話番号をダイヤルするのに、もちろん一度で覚えることなんか出来ずに、二桁ずつ区切ってダイヤルしていくことになるんだけど、それでも途中で間違えて、二回も三回も最初からやり直すことがある。口頭で出される一桁二桁の足し算が出来ないのも、「暗算以前に、出題された数字を覚えられないから」だと知人に言って、呆れられた。
ところが一方では、例えば歴史なんかのテストで、年号を覚えるのには大して苦労しない。「数」によらず、概して「短期記憶」が苦手で、「長期記憶」は人並みだということもあるんだけど、もう一つ、「単位」があるかないかというのが、私にとっては重要な違いだということもあるらしい。「1988」という意味のない数字の羅列は、何のことかちっとも解らないけど、「1988年」なら「いつ頃」なのか解るし、「1988円」なら「概ね手ごろな価格」と感じたり、ランチに払うにはちょっと高いけど夕食なら安いとか。
私が感じる、「音楽」と「数学」に対する「解らなさ」は、根底で繋がっているような気がしている。いくつかの共通項があるのだけど、その一つは「目に見えない」ということで、どうやら私の脳ミソは、「可視化できないもの」を扱うのが、極端に苦手らしい。だから、視覚で捕らえることの出来る図形(しかも数字には、長さや角度を表す、大好きな「単位」もついている!)の問題は、数学の中でも得意だった。単位のあるなしが私にとって重要なのも、その数字に具体的なイメージや意味を見出せるかどうかという問題なのだろう。
そして困ったことに、先に書いたように、私は数字が「苦手」ではあっても、決して「嫌い」ではなく、むしろ好きなのだ。家には常に手が届くところに電卓が置いてあって、何かといえば計算している。今はさすがにやらなくなってしまったけど、漫画家になった当初は、例えば「廊下に並んだ障子」をパースをとって描く際に、一々電卓を叩いて段々狭くなる障子の幅を割り出したりもしていた。好きなので、「できない」ということに、必要以上に拘ってしまう。「そろばん漫画」を描こうと思った理由の一つには、そういった数字に対する両価性を、なにかの形で織り込めるかもしれないと思ったというのもある。
『スワンパン』を描きはじめるに当たって、何冊かそろばんについての本を読んだ。その中で、「そろばんの利点」として、「数を具体的な珠の数で表すことで、視覚的に捕らえることが出来る」というのが挙げられているのを読み、「もしかして、そろばんを習っていたら、私にとって数の世界は、今のように茫洋としたものでなく、まるで違った馴染みやすい世界に見えていたのかもしれないなぁ」と、つくづく残念に思った。何によらず、学び、習得するということは、違う視座を手に入れるということなのだし。