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初出:メルちょ@ july 2000
もう 10年程前の引越しの時、不要になった家具などをリサイクルショップに売った。 その中に、18歳で東京に出たときに実家から持ってきた、古い整理箪笥があった。 古いとはいえ、「レトロ」という程古くも趣もなく、ただ「古臭い」だけな上に、正面に目立つ傷もあったその箪笥には、 どういうわけか、数年前に買ったばかりの小ぎれいなロッカー箪笥よりも、高い値がつけられた。 不思議に思って、引き取りに来たリサイクルショップの方に聞くと、「古いものは、作りがしっかりしているからね」ということだった。 そういえば、大きさの割にどっしり重たいのは、合板が使われていないからなのか。
自分がリサイクルショップに買い物に行った客なら、「古臭い」ものよりは「小ぎれい」な方に、より多くの代価を払いそうな気がしたけど、 そんな浮薄な消費者をよそに、「作りがしっかりしているもの」に価値が認められていることを、頼もしく思ったりした。
「それにしても、最近の電化製品は、作りがヤワすぎるよね」
友人に言うと、予想外に彼女は同意せず、「そう?」と聞き返した。
「だって、やたら壊れやすくない?」
「そうでもないよ。うちはそんなに壊れないもん。壊れるのはあんたん家だけ」
友人は、恐ろしい真実を、サラリと告げた。
友人にも度々グチっていたように、とにかくうちの電化製品は、よく壊れる。 年に一度も、修理や買い替えの算段をせずに過ごせた事はない。 常に何かが壊れている。 買ったときから壊れていたりもする。 それは全て、「"もの作り日本" の崩壊」とやらの大局の一端を示すものではなく、 私の機械運の悪さという、極々局所的な現象を示すだけのものだったと気付かされた瞬間だった。
断っておくが、私は「ものを大事にする」ことにかけては自信がある。 小学校の通信簿の「生活欄」は、みごとに「ふつう」が並ぶ中、「物を大切にする」(と「落ち着きがある」)だけは、いつも「よい」だった。 当時は、「あまりに "ふつう" ばかりでは可哀想だと、先生が気を使って当たり障りのない項目に "よい" をつけているのだろう」なんて思っていたのだけど、 長じて他人と自分を引き比べるに、先生はダテに長年子供を看ているわけではなく、どうやら私が思っていたほど無根拠に「ものを大切にする」に「よい」を付けていたワケではなかったのだと気が付かされた。 「ものを大事にする」というのが、決して誉められたものではない、優柔不断や吝嗇や執着心の発露だったとしても。
とにかく、私は部屋を狭くするだけの買い物は嫌いだし、数百円のキッチン用品でさえ数ヶ月に渡って吟味したりするし、
そうやって揃えた「部屋にあるもの」は全てお気に入りだし、だから決して粗雑に扱ったりはしない。
もちろん、壊れるまでは、殴ったりもしない。
私が壊してるんじゃない。私が買うと、壊れるのだ。そう力説する私に、友人も賛成意見を述べる。
「うん。だからさ、大事にされるから、付けあがってんじゃないの」
「ああ、なるほど」
……やっぱり私が壊していることになるんだろうか。
パソコンを買おうと思ったとき、私はごく当たり前に考えた。
「きっとまた、壊れるんだろうなぁ」
いくら機械がよく壊れる我が家でも、単機能の照明器具が壊れたことは、ついぞない。
複雑な機械ほど、故障の可能性は高くなる。
考えるに、パソコンなんて「故障個所候補」が固まって出来上がっているようなものだ。
でもきっと、付けあがられない程度に突き放すこともできず、それどころか溺愛して ―― ダメな子にしてしまうに違いない。